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ときには利益より、
徹底的に寄り添う。
お客様と共に歩んできた
古賀オール
古賀オール株式会社 
営業第3グループ リーダー 向坂 直巳

古賀オールの ワンストップという強み

古賀オールの特徴は、①独立系②鉄鋼一次指定商社③自社工場(コイルセンター)保有という3つを兼ね備えている点にある。

「業界の中では、資本関係や系列によって取り扱う製品や販路・販売先などがある程度制約を受けるケースもあるのですが、弊社では独立系の強みを生かしてお客様が希望される商品を仕入れ、取り扱うことができます。また、自社工場では製品のサイズやロットなどお客様の希望に合わせて迅速に対応できます。お客様のお役に立つものを、広範にすべて(ALL)取り扱うというのが、古賀オールという社名の由来でもあります」

また、高炉メーカーから直接仕入れた材料を自社工場で加工してお客様に直接届けるというワンストップの体制は、製品のトレーサビリティー(履歴情報管理)の面でも優位性を持つ。最近は資材に関する問題・不祥事などがニュースでもしばしば話題になるが、過去には鉄を使用した製品についても事故や不正が起こり問題になったケースがあった。

「製品の履歴を正確に追跡できるようにというお客様のご要望は年々強くなっています。あるとき、納入した製品について過去20年にさかのぼって使用鋼材の履歴を証明してくれというご要望をいただいたことがありました。その際、対応できたのは同業の中で古賀オールだけでした」

そこまでやらなければもっと売上を増やせる、利益が出せるという場面もあるかもしれない。けれどそれを愚直に誠実にやることが、お客様からの評価や信頼につながると向坂は言う。そこには古賀オールの創業以来のDNAが脈々と息づいている。

 

お客様に寄り添う 営業とは何か

近年、人手不足や労働時間の適正化が社会全体の課題となり、業務の効率化が求められるなか、営業活動においても一人がより多くのクライアントを受け持ち、電話やIoTを活用して効率的に売上を伸ばすことが優先されがちだが、向坂は「それは古賀オールの営業ではありません。あるいはお客様が求める古賀オールではありません」と言い切る。

「一社ごとのお客様にていねいに寄り添い、お客様にいちばん近い存在であること。お客様とともに歩んできたのが古賀オールです」

しかし、ただの御用聞きでは顧客に価値を認めてもらい、受注するまでには至らない。また、価格はたしかに発注決定の大きな要素ではあるが、それ以外の価値がなければ顧客はより安いところへと移っていく。必要なのは「お客様の抱える問題や悩みを古賀オールを通して解決すること」というのが、古賀オールの営業に対する考え方だ。

「製品知識だけでなく、お客様の業種・業界の動向を捉え、お客様をよく理解すること。営業としてのレベルを上げなければお客様に必要とされる存在にはなれません」

顧客の求める要望に対応することはもちろんだが、例えばこんなケースもある。ある会社ではなかなか購買部門の利益が上がらないためできるだけ安い商品を購入している。当事者は商品単価が問題だと考えているが、じつは外注費や運搬費など意外なところにコストが掛かっている。そうしたときに新しい商品や方法を提案することによって従来の工程やコストを削減し、顧客の利益に貢献することができる。顧客自身も気付かなかった潜在的な問題や悩みを解決する提案ができる営業とはそういうことだ。

「そのような経緯でご注文をいただいたお客様は、多少の価格変動があっても簡単に他社への切り替えはされません。だからこそお客様にていねいに寄り添い、密接につながることが大切だと思います」

お客様に徹底的に寄り添うという姿勢は、こんなエピソードにも表れている。向坂の担当先に後継者が見つからず廃業を決めた特約店があった。長くお世話になってかわいがっていただいた向坂は、廃業に係る在庫処理や機材整理を最終日まで手伝った。

「閉店の日、社長さんに涙ながらに『いままでありがとう。古賀オールさんと今日まで付き合ってきて本当に良かった』とおっしゃっていただきました。私がお手伝いしたことはこれから先の売上にはならない。数字として割り切ればそこまでやるべきだったか正解はわかりませんが、古賀オールの営業マンとしてそうした場に立ち合い、感謝いただいたことはいまも強く印象に残っています」

 

時代変化を乗り越え より筋肉質な会社に

古賀オールは昭和26年、先代の古畑勝人社長が同社の前身となる「株式会社古賀鋼材商店」を設立。戦後の経済成長による需要の高まりを受けて工場増設が続いた。昭和63年には社名を現在の「古賀オール株式会社」に改称。平成に入ると東北地区、東海・甲信越・北陸地区の需要に即応できる工場・流通センターが相次いで完成。平成7年には先代の逝去に伴い古畑勝茂が社長に就任した。

平成8年入社の向坂は先代社長の面接を受け、そのパワーに圧倒されたと言う。入社時には先代が逝去、勝茂社長のもとで営業マンとしての仕事人生が始まった。

入社後しばらくはバブルの余韻が残り、黙っていても注文があるという時期をわずかの間経験したが、その後、バブル崩壊からリーマンショックまでの十数年間は、経済環境が大きく変化。それに伴い会社も経営戦略、営業戦略を見直し、時代や顧客のニーズの変化に対応していった時期だったと振り返る。

「先代社長がパワーと情熱で仕事を大きくし、現社長がそれを持続可能な形にしっかりと再構築しました。バブル崩壊からリーマンショックまでは、現在ある売上を維持しながらいかに利益を効率的に出していくかということを前提に会社の体質改善が行われました。例えて言えば、身体を大きくした後、筋力アップして体質を筋肉質にしたというイメージです」

平成9年には物流環境の進展により横浜工場を東京工場に集約。平成12年には深川工場を解体、跡地に駐車場が完成。平成19年には通りを挟み向かいにあった東京第五工場を東京第一・二・三工場に集約し、ひとつの工場で最終工程まで完遂できる環境を整備した。

また、定尺と呼ばれる決まった寸法の製品を特約店に販売するのが主流であった時代から、自社から直接、自動車・電機・建設などの業界のお客様に納品する「直需」にシフトしていったのもこの時期である。これにより取引先の声を直接聞く機会が増え、大量生産・スピード生産から、小ロット・多品種出荷に対応するなど、顧客やニーズの変化に対応できる体制づくりに力を注いだ。

平成23年の東日本大震災発生時には、仕入先の高炉メーカーが被災し、取引先も被災したことから瞬間的に売上が40%減少するという事態も経験したが、それまでの強い体質の会社づくりが功を奏し、また、お客様に寄り添うという一貫した営業姿勢で、寸断されたサプライチェーンが回復し、復旧・復興が進むにつれて売上も順調に戻っていった。

「東日本大震災のときには被災した石巻の港の復旧に関わる案件があり、当時は材料も品薄で、現地までものを届けることもなかなかスムースにいかないところもありましたが、『絶対に現地にこの材料を届けるんだ』という強い思い、使命感が強く湧いてきました。東京にいる自分もこの仕事を通して被災地や被災された方々のお役に立つことができるんだと肌で実感しました」

平成23年には会社設立60周年を迎え、これまでの取引先との変わらぬ信頼関係を大切にしながら、新規開拓を専属とする部署では新たな取引先との関係構築をめざし、営業活動を行っている。また、人手不足が課題である工場管理ではロボット・AI・IoTを連動させたシステムを導入するなど、将来を見据え、次の一手を仕掛けている。

 

 

古賀大学を通して 受け継がれるDNA

「良い社員が揃っていないと良い会社にはならない。ボトムアップの意識改革が重要」は古畑勝茂社長の口癖である。

古賀オールには社員が主体的に取り組む「古賀大学」という独自の社員教育のための研修プログラムがある。61期からスタートして8年目を迎える。研修では製品知識、設備に関する知識、PC技術をはじめ、得意先管理、お客様とのコミュニケーション、さらには古賀オールの文化(創業理念、歴史、業界やお客様に対するポジション)など先輩社員が講師となり、新入社員を含めた若手社員を対象に、年間を通じて講義を行っている。年度末にはその成果を確認するテストもあり、合格した卒業生の中から次期の助手や講師が選ばれる。こうして古賀オールのDNAは次の世代へと受け継がれている。

“鉄は産業の米”といわれるが、国内鋼材消費量が減少し、高炉メーカーの再編が進んでいる。過去に6社あった高炉メーカーは、平成31年4月にトップメーカーである新日鐵住金が日本製鉄に社名を変更し、日本製鉄グループ、JFEスチール、神戸製鋼所の3社に再編された。

他方、鉄はリサイクル率が90%以上と非常に高く、再利用・再資源化が可能であることを考えれば、今後も無くなることのない変わらぬ基幹素材である。

古賀オールは、日本製鉄グループをメインとして、JFEスチール、神戸製鋼所、さらには電炉メーカーや海外メーカーの鉄を通じて、これからも顧客に寄り添い続けていく。

「私たちの仕事は、まちづくりやインフラ整備など、国土強靭化計画に参加できているという自負とやりがいがあります。いまは情報化社会で次々と新しいことが発信されますが、消えてなくなるのも早いという風潮のなかで、現実として日本の未来をつくっている、支えているという意味では、この時代だからこそやりがいのある仕事だと思います」と、向坂は胸を張った。

 

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